- [著]Emily Bronte
- カテゴリ:
- マスマーケット (688頁)
- ISBN:
- 0743261992
- 発売元:
- Kaplan (2004/12)
- 定価:
¥ 805 (税込)- 在庫状況:
- 在庫なし
ユーズド商品:¥ 3,157 より
嵐が丘(上)
サマセット・モーム「世界十大小説」の一つに選ばれている傑作。
確かに時代背景は古く、ヨークシャー地方といってもぴんとこないが
そこに住まう人間たちの心の内と、荒涼たる風景の描写が
まず重々しくシンクロして圧巻である。
若くしてこれを書くことのできた作者の力量は
登場人物たちと同じく、どこか狂気を抱えていたに違いない。
上巻は孤児ヒースクリフが、魂の片割れとも云うべき歪んだ令嬢
キャサリンとのすれ違いにより失踪、再度嵐が丘に姿を現すところまで。
現代日本の恋愛なぞ全て茶番であると感じるような
生の激情がぶつかりあう「恋愛小説」がここにある。
翻訳に賛否両論あるようだが、
専門家ではないため原文のニュアンスまで
正確に読み通す英語力が無い身としては
判りやすく、ありがたい。
a chainless soul
エミリ・ブロンテのことは、NHKドラマ「ハゲタカ」のエンディング・テーマとなっている以下の詩の作者として知った。
Riches I hold in light esteem.
And Love I laugh to scorn;
And lust of Fame was but a dream
That vanished with the morn -
And if I pray, the only prayer
That moves my lips for me
Is - 'Leave the heart that now I bear,
And give me liberty.'
Yes, as my swift days near their goal,
'Tis all that I implore -
Through life and death, a chainless soul,
With courage to endure!
ブロンテの考える"a chainless soul"すなわち「自由な魂」を持った者の哀しみが、この物語では描かれている。
身分違いの恋を成就させることができず、発狂死を遂げた女主人公キャサリンの亡霊は、童女の形をとってヨークシャーの荒野を彷徨う。
現在と過去、夢想と現実とを巧みに織り成して、物語は読む人を、人間のこころの不思議へと誘うのだと思われた。
「ねえ、ネリー、わたし、もし天国へ行ったら、とってもみじめな思いをすると思うの…
地上に帰りたくて胸が張り裂けるほど泣いたら、天使たちが怒って、わたしを荒野に放り出したんだけど、落ちたところが嵐が丘のてっぺんで、嬉し泣きして目がさめたわ。」
「穏やかな空のもと、ぼくは墓のまわりを歩きながら、ヒースや釣鐘草の間を飛ぶ蛾を眺め、草にそよ吹くかすかな風に耳をすませた。
そして、こんな静かな大地の下に休む人の眠りが安らかでないかもしれないなどと、誰が考えつくだろう、と思うのだった。」
すらすら読めます。
読みやすい。拍子抜けするほど、読みやすい。古典じゃないみたい。
物語は主人公にとって運命的であったであろう恋愛を、あっさりと家柄とか何やらで踏みにじられ、そのいたたまれない愛憎を、人の苦しみこそが我が喜びとばかりにネチネチと、グリグリと、嫌がらせを繰り返し、やがては家系の崩壊にまで追い込んだ主人公が、それでも何のカタルシスには成り得なかったという悲劇。ストーリーはだいたいが1人の家政婦によって語られるスタイルで、19世紀のイギリス版「家政婦は見た」というカンジ。オペラとか(できるだけ仰々しいヤツ)聴きながら読むと雰囲気でるかも。もちろん、スコッチウヰスキーも忘れずに。
念願の通読できた!!
~読書が好きな私だけど、『嵐が丘』だけは、これまでどうしても読み通せなかった。高校でも、短大でも、図書館には必ずこの小説は備えてあったし、自分で文庫を買ったこともある。世界文学の名作で、最上の恋愛小説だと、誰もがいうので、一生懸命に読もうとしたけど、何故かいつも挫折。諦めかけていたとき、岩波文庫で新訳が出たのを知った。訳者の名前に驚~~いた。だって、私の愛読書の『ラフカディオ・ハーン』の著者ではないか!早速読んだ。親しめる訳文のお陰で、すらすらと最後まで読めた。しかもすごく楽しめた。生まれて初めて、『嵐が丘』が傑作だと納得できて嬉しかった。同じ原書でも訳者でこんなにも違うものなのも初めてわかった。~
名作をより近づきやすいものにした優れた訳
旧版の岩波文庫の訳は、私が大学生の頃でも通読するのが辛かったのですが、河島氏の訳は予想を超えて読みやすい訳文になっており、これなら読書離れの著しい今の若い読者でも、愛と復讐の激しいこの小説の面白さがよく味わえることでしょう。これだけ正確でしかもこなれた訳文を生み出した訳者の苦心が偲ばれます。ヒースクリフとキャサリンの情熱に圧倒されながら、物語の展開を追っていけます。世界文学屈指の名作、されつつも、実際に読み通したことのない読者も多いこの作品が、新訳の登場で誰もに身近かなものになったことは、喜ばしいことです。
名作をより近づきやすいものにした優れた訳
旧版の岩波文庫の訳は、私が大学生の頃でも通読するのが辛かったのですが、河島氏の訳は予想を超えて読みやすい訳文になっており、これなら読書離れの著しい今の若い読者でも、愛と復讐の激しいこの小説の面白さがよく味わえることでしょう。これだけ正確でしかもこなれた訳文を生み出した訳者の苦心が偲ばれます。ヒースクリフとキャサリンの情熱に圧倒されながら、物語の展開を追っていけます。世界文学屈指の名作、とは知りつつも、実際に読み通したことのない少なからぬ読者にとり、この新訳の登場で作品が身近かなものになったことは、喜ばしいことです。
スピリチュアルな傑作!
ブロンテ姉妹の作品には宿命的だったのか死の影がつきまとい、またアイルランドの血統が影響してか、強烈な幻想的な感覚に溢れていると感じます。それはシャーロット・ブロンテの作品"ジェーン・エア"にも時折出て来た、ほぼゴシックロマンとでも言うべき恐怖と幻覚に苛まされる場面を思い出せば実感できること。しかし、エミリー・ブロンテのこの作品は、"ジェーン・エア"のそれをさらに凌ぐ集中力で書かれており、これを執筆した彼女は正気ではなかったのではないかと疑ってしまうほどの強烈な情念と空想力で物語が彩られています。ヨークシャー地方の荒れ地がどれほど荒涼としたところか。そして、ヒースクリフとキャサリンの炎のような恋。その対比が恐ろしいほど鮮烈で、その感覚は霊的なものに近い。30歳という若さで亡くなったエミリー。これは彼女の死の前の年に書かれたものですが、完成度や物語の質感の与える衝撃度は、"ジェーン・エア"を超えていると感じます。読後にじ~んと来るのですが、それがスピリチュアルな感覚で僕は好き。
ある意味では新潮文庫以下の翻訳本
新潮社文庫版も岩波文庫版も、あまりに翻訳本としての魅力に欠けている。特に、岩波文庫の訳文は、まるで『不感症の女がポルノ小説をいやいや訳しているような熱意の無さ』(すいません、下品な喩えで……)がありありとしていて、誤訳の多い新潮社訳以下であるとすら言えるのではないだろうか。少なくとも鴻巣訳にはまだ熱意(情熱)がある。
上巻を読んだときにはあまり意識しなかったが、岩波の下巻を読み終えた今は、河島弘美の訳も星一つ、と判断せざるを得ない。
下巻の後書きに、河島は以下の文を載せている。
『恩師行方昭夫先生を介して岩波書店からお話を頂き、本書の翻訳に着手してからちょうど三年の月日がたつ。』
恩師に紹介されたから、いやいやながら(?)訳しただけということか。
道理で、訳文には全く情熱が感じられないわけである。
行方昭夫に、これほど下手な訳をする『弟子』がいるとは、英文解釈の名著を数多く書いている(といわれている)行方昭夫(確か、東大名誉教授だったと思う)の恥だろう。
結局、私に言えることは、エミリー・ブロンテが自分の天国を描いたこの小説は、原文の英語で読むのが一番であるということになる。
嵐が丘に立ってみたい
実は、漫画の「ガラスの仮面」の中で演じられた劇が「嵐が丘」で、原作を読みたくて読みました。
何よりも強く感じたのは「嵐が丘」という地の閉塞感。閉じた空間に、限られた人とのみ接して暮らしていく人々。そんな中では、都会人の私から見れば「いきすぎでは?」と思われる復讐も、ある意味納得性のあるものなのかもしれない。
私たちからは異常に見えるヒースクリフの行動が、どこかイギリスの人々には共感を持って受け入れられているのではないか。だからこそ名作として語り継がれているのではないか。そう感じたとき、嵐が丘に行ってみたい。少しでも彼らの思いに共感できるものがそこにはあるかもしれない。そう思いました。
余談ですが、嵐が丘のモデルとなった地が実際にあるのだとか!。
魂のかたわれを求める切ない叫び
「わたしはヒースクリフなの。あの人はいつもわたしの魂の中にいる、いつだって!」
激しい気性の令嬢キャサリンと孤児ヒースクリフの恋。
嵐が丘屋敷に拾われてきた孤児ヒースクリフは、屋敷の令嬢キャサリンときょうだいのように育つ。だが、キャサリンは、スラッシュ・クロス邸の令息エドガーと結婚することを。逆上したヒースクリフは失踪。数年後、復讐の鬼と化して、キャサリンの前に表れたヒースクリフは、エドガーの妹イザベルと駆け落ちする。ヒースクリフと夫エドガーとの間で錯乱したキャサリンは、女の子を出産したその日に亡くなる。そして、ヒースクリフの復讐の手は、次の世代へとのばされる。
スラッシュ・クロス邸に下宿したロックウッドを相手に家政婦ネリーが語るこの物語は、
恋愛小説の原点とされている。だが、この作品は、本当の意味で恋愛小説と呼べるのだろうか。
ヒースクリフとキャサリンとの間にあるのは、恋愛というより強烈な一体感である。確かに、一体感も恋愛の要素の一つではある。だけど、それがすべてではない。ときめきや不安やちょっとした心のはずみといった、恋愛における大事な要素がほとんど感じられない。
一体感、それは深い喜びをもたらすのと同時に、身体を引き裂かれるような痛みをも感じさせる。そして、それは人間の本質にも深くかかわっている。それゆえ、魂の片割れを求める叫びが、今も人の心を打つのかもしれない。
この作品を読んでいて一番印象的だったのは、錯乱したキャサリンが、ベッドの上で羽根枕を引きちぎり、雪のように羽根が舞う中で、嵐が丘の自分の部屋を恋しがる場面だった。
この作品がさまざまな毀誉褒貶を受けながらも、長く愛されてきた理由の一つに、キャサリンの存在がある。常識的な考えに染まることなく、心の赴くままに奔放に愛し、行動するキャサリン。ある意味で、永遠の子どもともいえるキャサリンに惹かれるのはなぜだろうか。
キャサリンを通して、自分の内に永遠の子ども――インナー・チャイルドとも言えるだろう――が存在することに気づく。そして、この作品を読むことによって、みずからの内なる永遠の子どもがいきいきと羽ばたくのを感じる。
ヒースクリフは憎しみという感情に操られた人形だったのかもしれない。人形つかいから解き放たれたヒースクリフの魂は、ヒースの野で、再びキャサリンと、子どものころのように、思うがままに駆け回っているのではないか。
復讐劇は陰湿で残酷である。だが、読後は、浄化されたように感じが残る。カタルシスというのだろうか。
嵐が丘をあとにする若い二人の後ろ姿に、将来への希望や変わりない愛情といったものを託したいような、そんな気がする。
