- [著]鷲田 清一
- カテゴリ:
- 単行本 (198頁)
- ISBN:
- 4047033960
- 発売元:
- 角川学芸出版 (2006/09)
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「待つ」という行為の哲学的断章
「待つ」という行為の哲学的断章
「みみっちいほどせっかちになった社会」で人間は待たなくてもよくなった、いや、待てない社会になった…と著者はいう。
「待つ」ことは、時間ということと深く結びついていることを改めて実感する。
「水が満ちてくるように」待つという表現が印象に残った。
前のめりの「前傾姿勢」で生きることを強いられる世の中で、「からだを退避させ」て空き地をつくる、そうして来るやも知れないものを「迎える」…そんな待ちかたもあるのだ、と知った。
《鷲田ワールド》が十分堪能できます
「待つ」ことをめぐる断章です。
現代はスピード至上主義で、何事につけ待てない時代になってしまいました。
例えばコミュニケーション。郵便から電子メールになったこと。あるいは固定電話から携帯電話。
テクノロジーの進歩により、便利になり、その恩恵を受けています。返事をより早く求めるようになり、より早くのレスポンスを要求するようになってしまっています。
そんな中で踏みとどまる、待つことの意義を考えさせてくれます。
まさ《鷲田ワールド》を十分堪能できる一冊です。
「待つこと」ことは、現在の延長では無い新しい未来に向けて自らを開くこと
待つということは、「けっして何が起こるかわからない絶対の外部である未来」に向けて自らを「開け」ること。<待つ>ことから未来は生まれ、意識は始動したとすら言えるかもしれないp.189と鷲田先生は言われています。また、<ホスピタリティ>とは、他者の前に自己を差し出し、みずからを傷つきやすい存在とすることであると鷲田先生は言われていますが、ヘンリ・ナウエンが言っている、「聖書的リーダーシップ(イエスの御名でー聖書的リーダーシップを求めて (あめんどう))」と一致しています。いずれにしても、<待つ>ことは自己を生成する上で重要な行為なのだということについて深く実感できる本です。予断ですが、内田樹先生の著書の引用が出てきて、鷲田先生のような権威の方でも内田先生の本を読んでいるのだ、内田先生は怪しい哲学者ではないのだとわかりほっとしました。
待つことが<人間>の証し
待つということが失われたのは、産業構造の変化が大きい。鷲田清一という大森荘蔵以来の「哲学者」は、そのことを本当に理解している。
そもそも20世紀はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の世紀であった。前衛たらんとする芸術家で、ベケットを模倣しない者はいなかったといって良かろう。ジョイスが終わらせた現代文学を延命させたベケットの天才は、まっこと20世紀の楔の役割を果たしたのであろう。
我々賃金労働者からすれば、鷲田が正しく指摘しているように、会社組織においても「待つ」ことができなくなった。つまりは成果主義による短期の利益を追求するイデオロギーである。
例えば、「ビジネス書」というジャンル中で、最も思索を促す書き手である柴田昌治の最新著書を丁寧に読むならば、短期利益にのみあくせくする組織は滅びざるを得ないということが明白であろう。「待つ」ことの重要性、そしてその人間存在の根源に係わる重要性がはっきりとわかろうというものだ。
本書は些かも高踏的な<哲学書>ではない。高度資本主義にゼーゼーいいながら生きている全ての人間が参考に出来る知恵を授けてくれると思われる。
待つことから生まれるもの
特に携帯時代が始まる前は、待つ、という状態が当たり前でした。
待ち合わせに迷ったり、待ってる時間にイライラしたり、
その中に期待や不安が入り混じるあせり…
でも、その「待つ」ことによて、待つ対象者への関係性の認識が、
どれほど深まるかということを思い出させてくれます。
昔は、何かに期待し、待ち、本を読んだり、色々なものに興味を持ったり。
そういうことができなくなった今、現代の我々は、哲学的思考が出来るのか?
もしかして、待たなくていい社会に、「深く熟慮する力」を
奪われているのではないかと、自ら自問自答してしまいます。
(でも、ちょっと後半からネタが散漫になってきて、
あれ?ネタ切れしてない?という感じの話題の入れ方だったかな。
強いて言えば、前半の考察路線を後半まで維持して欲しかった・笑!)
生活全体を見つめなおしてしまう貴重な一冊です。
「待つ」ということから「開け」へ
「待たなくてよい社会になった。」
本書はこう説き起こされる。だからといって、せっかちでゆったり待つ余裕のなくなった社会のあり方を嘆く方向に筆が向かうかといえば、決してそうではない。
「待つ」とはいったいどういうことなのか。あなたや私のそれは、果たして「待つ」ということなのか。
繰り返される問いは、いつしか「待つ」という以前の「待つ」、あるいは「その〈待つ〉とは違う〈待つ〉」へと、書き手と読み手とを誘う。その誘いは、疲労と絶望の果ての、人のイニシアティブが手放されたところへ人を運ぶ。
手放し、迎え入れ、開けることで、到達する場所。行間から垣間見るそれは、女性のオルガスムに似て、どこまで行ってもその上の境地が開けるような、そのような可能性に開かれているところのようである。
「何かを待つ」を超えたところにある「待つ」とは・・・
携帯電話など情報機器の出現による「待つ」ということの
変質から説き起こされます。私の問題意識と重なるところもあり、
非常に面白く読み出せましたが、それに続く論考は結構難し目でした。
「何かを待つ」を超えたところにある「『待つ』ということ」、
少々身近に思い当たることもあるのですが、やはり難しいです。
それは実は、その問題意識を保ち続けることが難しいのかも、
しれませんが。
装丁と文体に裏切られる読み応えがありました。
「待つ」という行為の可能性とその是非
現代が、待たなくてもよい社会、待つことができない社会になったのは、言うまでもなく情報メディアの発達によるのだろうが、より正確に言うのなら、メディアの発達が「待つ」という概念に‘重量感’をもたらし、私たちはその‘重さ’に耐えられなくなってきているということなのだろう。
しかし、「待つ」ということは未来に期待することであるのだから、‘今’を生きることにはならない。だから希望などもつべきではなく、もつ必要もなく、今するべき目の前の瑣末な事をこつこつとこなして感受性を磨いていけば、全く予想していない‘恩寵’がもたらされるだろうと、うかつにも私たちは‘期待’してしまうが、希望を持たずに私たちは生きていけるのだろうか。生きる意味というものは未来からもたらされるのだから。果たして私たちは無意味に生きていけるのだろうか。本書はその答えではなく果てし無い考察である。
