- [著]山本 七平
- カテゴリ:
- 新書 (313頁)
- ISBN:
- 4047041572
- 発売元:
- 角川グループパブリッシング (2004/03/10)
- 価格:
- ¥ 820 (税込)
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著者の思い入れ
著者の思い入れの強さに、
圧倒されるとともに、
閉口している。
たとえば、「バシー海峡」について
なにやらポイントの一つのようなので、
周辺を頑張って読んだのだが、
いろいろな枝葉に飛んでおり、
肝心の中心的アイデアがわかりづらかった。
著者に相当感情移入しないと、
「面白い」までいかないような気がする。
卓越している。
小松真一氏の「虜人日記」がなければ本書は書かれなかったと感じる。
だが、本書は「虜人日記」を補って解説されたというよりは、二人の意志が結集して
さらに良い作品となった感がある。
客観的に敗因を分析した本書は、多くの戦争反省本や体験本とは一線を画する。
本書を出発点に、より深く分析を進め、よくも悪くもあるこの日本人性を
どうやって次に生かすことができるのか?
非常に考えさせられる良書である。
昭和の戦争の鮮烈な記録、そして敗因から探る秀逸な日本人論。全日本人必読の書。
終戦の約30年後に発表され、それから約30年後に新書となった名著。陸軍にガソリン代わりのブタノール生産のための技術者として徴用されてフィリピンに渡り、そこで終戦を迎えた小松真一氏が戦場及び収容所での見聞を必死で記録して日本に持ち帰った、現地性・同時性・そして戦後の権威に迎合していない点で稀有の記録である虜人日記から多くを引用し、著者の体験も重ねつつ、戦争の敗因とそこから探る日本人論を展開する、全日本人必読の書だ。明確な意図も方法論も、従ってそれを実行する組織もなく、出たとこ勝負を繰り返すだけ。バシー海峡の危険性が判りつつ員数合わせのための兵員輸送が止まらなかったのがその典型。兵器の近代化や未熟な兵でも操れる技術を開発することもなく、古色蒼然とした武器しか与えない。そのくせ、ほとんどの上官に教養のかけらもなく、威張り散らし、弱い者いじめが横行する。食料も満足に準備できず、最後には戦友同士が殺しあってその肉を食べる。戦死者の多くは輸送船とともに沈んだ人と餓死者であった。妄動に突き動かされ、本心を語ろうとするものがあれば非国民扱いし、マスコミも虚偽の報道(南京での百人斬り等、軍の蛮行とされるものでもあり得ないものは虚報と断じる著者には信頼がおける)を平気で行う点では銃後の国民も同じであった。
結局、井沢元彦氏が言うように、日本は言霊または祝詞が支配する国だ。「数があるぞ」という言葉を権威づけ、反論を封ずればそれで足りる、というのはその極限である。精神力優位の盲信は西南戦争の西郷軍に既に見られ、西郷軍敗因の反省と言うか分析がないまま、西郷軍的発想が軍部の主流になったとの指摘も鋭い。戦後60年以上が経過して、我々はどれほど言霊・祝詞支配を脱却して自由に話し合えるようになっただろうか。また芸至上主義の弊をどれほど克服できただろうか。本書の問いかけは重い。
座右の書たり得る名著
本書が取り上げる小松真一氏の虜人日記も、それに加える
著者山本七平の筆致も無駄がなく、意味なき抑制もなく想い
を直裁に語る硬質な叙述が、日本軍が陥った組織的、構造的
な陥穽、欠陥を見事に描き出している。
バシー海峡の海に機械的に沈められていった名もなき人々
の鎮魂は、日本が抱える根源的な課題を日本人自身が深く認
識することによってしか為しえない。長く手元に留め繰り返
し読んで考える材料にしたい書である。
極限状態における組織・倫理破壊の事実を抉る力作
軍属としてフィリピン戦線に巻き込まれた小松真一氏の経験(「捕人日記」)を、期せずして同じフィリピン戦線で辛酸を甞めた山本七平氏がご自身の経験も踏まえつつ解説・取り纏めた力作。現地性、同時性という資料の信憑性の要件を踏まえ、しかも淡々とした客観的な視点で日本軍という巨大組織の組織性が、「補給線寸断」→「飢え」といった要因だけそので倫理性が脆くもあっけなく崩壊し、個々の兵士、軍属が平時では考えられないような猟奇性、生き残るための自己中心性をむき出しにした戦闘動物に変身していく描写は、私のような安穏とした生活しか経験しかない多くの現代日本人にとって、「壮絶」といった感想しか出てこないように思う。
敗因として小松氏が上げている要因について、例えばバシー海峡での消耗について今の日本人は旧陸軍を笑う資格があるのか。仮に同じような状態に個人がおかれた場合、私も含め普段当然のこととして考えている倫理感を維持することができるのか、弱った戦友を殺してその肉を食らうようなことがないという保障がどこにあるのか、色々と考えさせるものが深いものがあった。安全保障、戦闘における補給の重要性等、今後国家レベルで考えるべき部分を提示してくれる貴重な記録であると共に、山本氏が別著「ある異常体験者の偏見」で述べているように、人間というのは慢性的な食物中毒者であるが故、それが一旦断たれると倫理・正義のあっけないほどの脆さを持つことを、そのような状態に未経験な私を含めた日本人に対し、完全な理解とまでは難しいがその一端を想像させてくれるように思う。
果たして、今の日本人に当時の日本軍の極限状態での数々の残虐行為の表面部分のみを、正義面をして「悪」として処断する資格があるのであろうか。またそのような総括を「率直な反省」として片付けることに何らかの将来への意味があるのだろうか。
人間とは常にそのような危険性を孕んだ宿命的存在と認識した上で、同じような事態を回避するための具体的処方箋を考察することが、新の意味で「過去から学ぶ」ということなのではないだろうか。
そして、食糧・エネルギー自給率が極めて低い我が国にとって、たとえ外国に軍事的侵略を行わなくても、シーレーンが寸断されれば、同じような事態が国内でも容易に再現されうる黙示録とも思える。司馬遼太郎が「平和念仏主義」と揶揄し、食糧・エネルギー安全保障論に疎い現在の日本人への警鐘と重なる部分を感じるとともに、我が国が生き残るために適正な防衛力維持と多方向外交への真剣な考察とのバランスに立った、政策立案→実行の必要性を提起する名著であると思う。
極めて優れた失敗学の本
太平洋戦争での日本の敗因を、鋭い視点から論考した内容である。
ただし、この本のタイトルが「敗れ"た"のか」ではなく、
「敗れ"る"のか」であることに注意。
著者によれば、あの戦争に敗れた我々日本人の多くは、
本当の敗因を知らず、したがってその反省も全く出来ておらず、
この本が最初に出された1975年の時点でも
同じような間違いが現に行われていたらしい。
私が思うに、それは21世紀に入った現在でも全く変わっていない。
300ページもあって、新書としては文字数が多く、
文体・内容ともいずれも固い本と言えるが、
読み始めると実に面白く、ぐいぐいと引き寄せられていく。
これは、著者の論考が極めて鋭くて新鮮なことによるだろう。
現代においても、「あぁなるほど」と思えることが多い。
残念ながら、戦いに負ける体質は本質的に変わっていないのだ。
ただし、この本は「日本人論」や「民族論」として読むべきではないと思う。
同じような間違いは、状況次第では他国民でもやりうるだろうし、
「なぜ日本人は・・」と追求することが有益なこととは思えない。
それよりも、戦争中に限らず、日本人に限らず、
人間がやってしまいそうな「失敗」のケーススタディとしたほうが有用だ。
著者が挙げた敗因の中で、私がもっとも印象的だったのが
「『芸』の絶対化と量」と言うもの。
ゼロ戦や大和に見られるように、
単に技術(芸)を極めることに徹底的に腐心する人は、
特に技術系には(いまでも)多い。
しかしそれらは、いざ実戦となると
単純な「量」にいともあっさり敗れてしまうのである。
日本人の再把握と成長の為に
小松真一氏の「虜人日記」を元に著された本である。内容は日本人のことを辛辣に書かれている。
この本の最後の方には、(「虜人日記」がはじめから終わりまで、さまざまの実例で強く訴えているものは・・−中略−明治以降の奇妙な「通常性を把握しないことを通常性」とする性向、いわば、ある力に拘束されて自己の真の規範を口にできず、結局は、自分を含めてすべての人を苦しめる「虚構の自己」を主張することが通常性になっているためと仮定するなら、その拘束力を排除できなかったのは何のゆえで、何が欠如してそうなり、何を回復すればそれが克服できるのであろうか?)という文章がある。これは山本七平氏の「日本資本主義の精神」で機能集団と共同体の二重構造に問題があるのだろうか?日本人が元来伝統とする常識(規範)の不明瞭さが問題なのか?
常識的行動の仕方、常識的な言葉用い方の日本人すべてに日本の組織のすべてに浸透しなければない。
日本人は数があれば内容も質も問わないのか?
日本人は追い込まれれば、数をつぎ込めばなんでも解決するんだ、それを繰り返してどうにもなららくなったら、すべてのこと(方法)はやった(やりつくした)と言って、消化するとか、何も知らない門外漢がしゃしゃりでてきて、専門のことについて話を挟むからうまくいかないとか、数さえあれば内容も質も問わないとか、日本人は英語やスペイン語、タガログ語も話せないのにフィリピンを占領して、解放軍を名乗り、占領したフィリピン人や解放したアジア諸国の人々を足りない日本人と見ていたから、結果的に日本人が裏切られたという言葉で語るような形でアジア政策に失敗したんだとか、もし自分がその場にいたならばどうしたであろうと見たものを再構成して物事をとらえるという本当の反省が無いから日本人は戦争に負けたんだし、また同じ失敗をするだろうとか、日本人は決して物まねではないが、一子相伝の芸によって技術も経済も行われているとか、おそらく独自に近い視点で日本人というものの全体の性格に切り込んでいます。
例えば野球は世界的に通用しますが、サッカーなど日本人だけでリーグを作って日本人だけでサッカーをやっても一向にうまくならない、これなどつまりメジャーで通用する野球もワールドカップで負けるサッカーもまさに一子相伝の芸の考え方の賜物です。(ただ日本人はアメリカ人より体格が劣る、体が小さいのになぜメジャーで通用するんだ、なぜWBCで世界一になったんだというアメリカ人の驚きみたいにいいところもありますが。)
捕虜収容所でのいわゆるいじめなど日本人が暴力でしか秩序を維持できないなど、心の深いところに負った傷に触れられると、人間はヒステリックな弁明に終始するという表現は、現代でも日本人なら学校や職場などどこでも、自分がいじめを見たならどう行動するだろうと考えると、本書の著者が怒る上官に不動の姿勢をとらなかったことで、上官に呼び出されて、運送船に押し込まれて、アメリカの艦船に確実に沈められるという状況におかれる逸話と比べてみると、身につまされるのではないでしょうか。同時性と現地性を持ち、対人間関係や対社会関係になるべく改変されることなくそのままに読者に伝えられるものが本当に価値のあるものである。それゆえ党史なるものは同時性、現地性を持っているからこそ信憑性に欠けるのである。著者の意見です。この書はまさしく日本人に対する警告の書でしょう。
文句なし
淡々と語られる内容にうなずくばかりだった。
私は20年程前、卒業後、数年間日本の銀行に勤務していた。当時、支店長から「仕事は努力・根性・汗」が全てだ、あるいは、「考える前に動け」と毎日怒鳴られていた。目の前に顧客データがあるにもかかわらず・・・
活動の目的を聞くと、「若造が何を言う!」と言われたものだ。強い疑問に感じ、その後グローバル企業に転職した。
そこではOGSM(Objective-目的・Goal-ゴール・Strategy-戦略・Measurement-計測)の考えを徹底的に教え込まれた。すべての活動はロジカルである。希望的観測だけで物事は進まない。
私が経験した、日米企業の相違は、本書の敗因の多くの項目に合致する。それだけに本書の内容の深さ・客観性・凄みを肌でで感じ、恐れ入いった。
外資企業を知る上でのテキストにもなりえると思う。
この本が1920年に発売されていれば・・・
この本には、日本という国、日本という国にある社会、日本という国に生きる人々が持っている悲しい習性のすべてが盛り込まれていると思った。この本が1920年に出版されていれば、世の中はまた違ったものになったと思う。
でも、著者の山本氏も戦争を通してこうした境地に達したのだから、それは無いものねだりというべきか。
