- [著]阿部 謹也
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- 4061492624
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- 講談社 (1995/07/20)
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東西の個人と社会そして「自由・平等・平和」の成り立ち
自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫 あ 4-3) は著者がヨーロッパ社会に興味を持ち、西洋中世史を志すようになった経緯をとおして、ヨーロッパ中世史を人間関係の変化から読み解いています。たとえば、なぜ自然科学や資本主義がヨーロッパに誕生し、発達したか。二つの宇宙(ミクロコスモス、マクロコスモス)の章では、なぜ中世人たちは、占星術を深く信じていたかや、神殿をめぐって「アジ−ル(避難所)」が語られます。唐突ですが、高校生が発した質問「鎌倉以降天皇の力が弱くなりながらもなぜ現代まで存続できたのか。」「なぜ、平安末、鎌倉という時代に優れた宗教家が多く現れたのか。」という問題に答えようとして、網野善彦は日本中世のアジ―ルについて「無縁・公界・楽(平凡社)」を書いたわけですが、この大きな質問は、この「無縁」原理がキリスト教会によって制度化され、ヨーロッパにのみ、なぜ自由・平等・平和の思想が生み出されたかということにつながっていきます。さて、人間関係といえば、人間と人間のあらゆる関係の総体を社会(society) と呼びますが、阿部氏は日本にはヨーロッパ社会と異質の、「世間」があることを指摘しました「「世間」とは何か(講談社) 」。日本の学者の大多数が日本社会を「社会」という言葉で論ずるとき、実際の日本社会「世間」とのずれを全く理解していないことを指摘しました。また、社会は、個人から成り立っていますが、日本おける個人のあり方とヨーロッパにおける個人のあり方は根本的に異なっています。ミッシェル・フーコーが指摘しているようにヨーロッパにおける「個人」の成立にカトリックの「告解」が深くかかわっていますが、阿部氏は、さらに中世人が告解をとおして「男と女の関係の問題」を「自覚」する中に個人の誕生を見たのです。(「西洋中世の男と女」筑摩書房)。
世間は何かは人それぞれ
社会と世間との違いはわかったが、現代一般に使われている世間の解体はされずに終わってしまった。
「世間」は空気のように見えない、感じない
*****
阿部謹也氏が亡くなった。享年71歳。
ドイツ中世史を専門とする阿部謹也は『ハーメルンの笛吹き男』で知られるが、
彼の名前が広く一般に知られるようになったのは『世間とは何か』が上梓
されたのちだろう。彼の「世間論」をアカデミズムは無視した。自身が「世間」
の住人である学者たちにとって阿部の指摘する「世間」は空気のようなものなの
で対象化できなかったせいだ。阿部を支持したのは、この日本社会が妙に生き
にくいと感じていた一般読者だった。
喫茶店で携帯電話を取り出し、大声でしゃべっている中年男性がいた。
高価そうなスーツ姿、滑舌の良い声で完璧な敬語を使っている。どこから見ても
経験豊富で有能な営業マンにしか見えない。取引先らしき相手への丁寧な対応は
模範になるようなものだった。しかし、すぐ周りにいる人間へのこの男の配慮は
ゼロであった。この極端な落差はいったいどこからくるのか。電話の向こうの相手
には常識をわきまえた適切な対応ができるのに、すぐ隣にいる人間への配慮が
どうして欠如してしまうのか。
この日本社会がなにやら生きにくい、周りの人間の言動が理解しがたいと普段から
感じることの多い人にとって『世間とは何か』『日本社会で生きるということ』は
必読書である。
我々が生きる日本社会の特質
本書は、ドイツ中世史を専門とする著者が、
「世間」という日本社会に連綿と息づく社会的特質を
様々な文献を手がかりとして描き出したものである。
既にレビューも数多く、書くべきところは殆ど無い。
よって、ここでは重複を避けるため私的感想のみを述べるに留まろう。
蛇足と理解しつつ、本レビューを読んで頂きたい。
思春期を迎え青年期に入るなり、若干の海外生活の経験がある私(ごとき)は、
日本で暮らす事にある「生き辛さ」を感じてしまった。
「自分が正しいと思う道を突き進め」などと、
「個人」を尊重した価値規範を基にのたまわれる口当たり美味な少年時代の教えは
現代日本社会においてはある種弊害となる。
実際には、正しいと思った事をこの場所で突き通すには覚悟と根性と才能が必要である。
何故必要なのか? 何故突き通せないのか?
その答えが「世間」という日本社会構造の存在とその作用である。
詳しくは本書にて。
注記しておくが、
私はこの「世間」にある「生き辛さ」を感じてしまったが
著者も指摘するように、「世間」は「安心」も与えてくれる。
少年時代に教授された個人主義を典とする甘美な思想に酔いしれ、
青年時代の「生き辛さ」の大海においても二日酔い状態だった私だが、
成年時代の今では酔いも醒め、その「安心」の大海の漣に片足の踝程まで浸している。
盛年の盛りを取り戻すべく、今また酒を手に取りチビチビと盛っている(実際には下戸だが)。
世間の謎
多くの実例を元に日本に残る「世間」というものを解きあかした名著。
ある意味それは空気といってもいいかもしれない。
いまだに日本人の間に残っている「空気を読め」という言葉などもそうだ。
少なくとも日本人にはシロクロをはっきりつけるという意識は学者でもいまだに存在しない。
罪をおかしていなくても疑われた場合世間を騒がせて申訳ないと謝罪しなければならない。
特に後半の漱石を中心に分析した項は日本人がいまだに近代を迎えていないと痛感させられる。
日本の自称近代人や自称西洋学者たちが見てみぬ振りをしようとしたものをまざまざと見せ付けてくれる。
世間を騒がせたことをお詫びしたい、という言葉は翻訳不能
つい先月、著者の阿部氏の訃報を聞き、
あらためて手にとってみた。
著者の阿部氏はドイツ中世史の専門家で、
出世作の「ハーメルンの笛吹き男」では、グリム童話を手がかりに
中世を生きた民衆の社会的環境、とくに職業や身分による階層社会、
差別の問題を浮き彫りにした。
本書はその日本史版といってもよいだろう。
万葉集、徒然草、歎異抄、西鶴、漱石と各時代の物語を紐解きつつ、
日本人にとって「世間」がどのような存在であったかを考えていく。
日本における「世間」の特異性は例えば、
・世間を騒がせたことをお詫びしたい、という言葉は
英語やドイツ語に翻訳することができない。
・宝くじにあたると日本では世間をはばかって隠したりするが、
アメリカでは新聞に堂々と顔写真がでる。
などに現れているという。
世間は顔見知りの人と人との具体的なつながりであり、
世間体は個人の自由や利害に優先する。
そして万葉の昔から今にいたるまで、
世間は暗黙のうちに日本人の行動を規定している。
このことはすなわち、日本に「個人」が長く存在しなかったこと、
そしていまだに日本には「個人」が存在しないことを意味している。
この本のいちばん凄いところは、
この事実=日本には個人が存在しないことを発見した点であろう。
なにしろ、あたっている文献の量が半端ではない。
阿部氏にとって日本史は専門外ながら、
本物の学者が本気で取り組んだテーマであることがわかる。
文献考察が主で、論旨展開に特別な起伏もなく、
読み方によっては退屈かもしれないが、
内容はけっして凡百の日本文化論ではない。
例えば忠臣蔵の精神は四書五経の中には見つからなかったが、
阿部氏が指摘した「世間」の中にはそれがありそうだ。
「世間」は日本人の伝統的精神構造を読み解くための、
ひとつの大きな鍵なのである。
誰にでも薦められる本ではないが、名著であることは間違いない。
世間とは
世間というものに対して社会史的にアプローチした名著。社会科学や従来の西洋知識人の輸入に
依拠ぜず日本の特質を明らかにしている。
日本に於いてはネットですら世間的なものが幅をきかせている所から見ても著者の考察は重要である。
特に著者の他の著作もあたれば大学という所がもっとも世間的な所であることに思い至るはずだ。
世間という語の語源から日本の様々な著作を通じて世間というものを浮き彫りにしている。
歴史的名著?
平積みになっていたので手にとってみた。目次を見ていたら、最近興味のある人たちを取り上げていたので(親鸞、吉田兼好、金子光晴)買ってみた。なぜこれが「歴史的名著」なのかさっぱり分からんが、内容の半分を占める、恋愛の話は面白かった。井原西鶴ってすごい話を書いてたのね。こんな人歴史の教科書に載せていいのか、っていう気がする。
「世の中(世間、じゃないけど)」といったら「男女の仲」の比喩であった時代があったそうな。そういや、古文の時間にそんなこと習ったなーと思い出した。世の中も男女の仲も世知辛い、甘酸っぱい、っていうことなのかな。それとも、世の中に生きるということが、男女の仲を生きるということなのか。分からない。とにかく日本人って、奥ゆかしくて恋愛下手だと思ってたけど、この手のことにほんとはすごく情熱的なんじゃないかな(或いは、だったのではないか)と思う。
「世間」と「社会」―アレントから考えたこと
基本的に各時代の引用から考察を少し加える程度で,よい印象は持てませんでした。ただ,私なりにレヴューできる偶然の機会を得たので書きます。
ハンナ・アレント『人間の条件』を読んだ直後に本書を手に取ったのは,比較可能という点で幸運でした。アレントは,「公なるもの the public」および「私なるもの the private」という古代ギリシア以来の世界に,近代の産物としての「社会的なるもの the social」を当て比較・考察を進めます。
では,「世間(なるもの)」とは。その前に,そもそも,「社会」でないとしたら,社会科学としての「世間学」は成り立ち得ません。「社会」も「科学」も,西欧的また合理的であるためです。「世間」論自体,前者は嫌うのに対しその考察は後者に頼っていると思います(著者はドイツ中世史専門)。
そして,非西洋的,つまり日本独特のものとして「世間」を捉える傾向には,違和感を覚えます。「公・私・社会」もまた,古代ギリシア以来のヨーロッパなりの「世間」論ではないでしょうか。レイベリングの問題ではなく,ただ(アレントのいう)ヨーロッパ世界ではそれを明確に3つに分類している,というだけではないでしょうか。
どの時代に初まりをなすポイントを置き(あるいは「ポイントはない」とし),「世間」と比較し得る他のどのような実定的空間があり(「世間」という言葉自体,「この世のすべて」を指す印象が強いですね。ただ,「間」とアレントの「間―存在 inter-est 」とで類似および差異を感じさせる点は興味深いです),それらの相互作用の中で「世間」はどのような機能を持ちまた変遷したのか。
世間とは何か,と問う際は先にこうした視点が要るのではないでしょうか。社会もまた世間,世間もまた社会,です。文化人類学や社会学,現代思想からは距離を置いている立場の私ですが。
失われた「個」
~ 「世間」というものに社会学的にアプローチする必要を説いたところは偉いなあ、という本です。著者の阿部謹也さんは従来の知識人や学者の個性のない書物に反発を感じている方で、確かに彼の文章には自由闊達でのびのびとしたものがあります。しかしながら、文学作品を安易に社会学の俎上にのせるのは従来のインテリがやってることとあまり違わないような気~~がしました。決めつけもわりに多いし。でもそれはまあいいでしょう。
~~
「世間」の概念というのはおそらく「村」という日本古来の共同体が母体となっているものです。少なくとも現代僕らが使うときはそのような範囲の意味があると思われます。ならば、文学から言葉の意味範囲を読み取るよりも、「村」が生まれた当時の社会や思想体系を中心に調べたほうが、より問題の中心に迫れるのではないでしょうか。これはただの推測ですが~~、日本人というのはその歴史の過程において「個を禁じなければ生き残れない何か」があったと思うのです。個の発生を妨げる何か、といってもいいでしょう。「村」というのは個を犠牲にすることで一つの集団を守り、より大きな集団(国家など)から身を守っていたものとしてありました。日本人は「個」を捨てたのです。おそらくは外的から身を守るために。しか~~しながら西洋では逆に外敵から身を守るために「個」を必要とした。とにかく、個性のない日本人を責めるだけでなく、この失われた事情について研究してみることのほうが重要でしょう。~
