- [著]佐々木 俊尚
- カテゴリ:
- 単行本 (286頁)
- ISBN:
- 4062136597
- 発売元:
- 講談社 (2007/08/07)
- 価格:
- ¥ 1,680 (税込)
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ネットの進展の真ん中で
「次世代ウェブ」という新書で気に入った、佐々木俊尚さん。この本では、ネット社会の流れを手放しで喜ぶばかりではなく、ネガティブな部分もあわせて紹介してあり、文章のキレもよく、すばらしい本でした。
この本の構成はおおむね4章に分かれるのですが、最初の章では、1999年に筆者が毎日新聞記者だったときのエピソードが紹介されています。
個人が事故現場の写真をネットに掲載し、それを毎日新聞が問題にした(つまり、責任あるマスコミならいいが、責任をともなわない個人がそんな報道まがいのことをしては良くない)というエピソードです。今なら普通のことですが、当時は筆者によれば「新聞社のインターネットに対する拒絶反応があった」ということで、ネット叩きが起こったようです。
そのようなエピソードから始まる本書は、いかにもネット礼賛に進みそうなのですが、そうではなく、ネットで起こっているリアルな問題にも触れているところが興味深かったです。
たとえば、Wikipediaの編集合戦や、「加藤の乱」について、加藤紘一がインターネットに乗せられてしまった面があること、そして最終章、筆者自身も巻き込まれたという「ことのは事件」の丁寧な紹介。そこでは可視化、が大きな論点となっていました。
これらをまとめると、第4章のタイトルにもあるように、「公共性を誰が保障するのか」という点が、筆者のもっとも関心のあるところなのかもしれません。
>世界で起きていることすべてがフィルタリングされ
>しかし砂糖菓子のようにくるまれた安心社会に
>戻るのか
>それとも生々しい現実と相対することが可能で
>しかし自分の頼る場所も見えなくなった浮遊社会
>へと歩みだすのか
>つまるところわれわれは、この二つの世界観の
>選択肢に迫られているのである。
本書で明らかに述べられているのは、既存の知識提供システムはもう終わっているということ。だけど、ではどうなってゆくのか、ということは、まだ誰にもわからないのでしょう。また数年後、この筆者の考えを読みたいなと思いました。
わたし自身はインターネットを楽しく使うだけの素人ですが、そんな素人にとっても面白い時代になったなあと感じています。これからの変化を興味深く見つめてゆきたいと思いました。
過渡期としてのフラット化
今まではマスコミの権威による「誰が」書いたのかが重要であったのが匿名記事の増加に伴い「何を」書いたのかという内容重視になってきています。誰もがマスコミと同等の発言力を持つ可能性がありネット社会によりマスコミ権威が脅かされている現状をフラット革命と呼んでいます。
著者の膨大な取材により非常に内容の濃い1冊になっており楽しく読めました。結論としては失われた「公共性」が必要(しかしシステム化はほぼ不可能か)ということですが、問題提起としては有益な本であると思いました。ただしネット社会とは言っても本書ではあくまで日本国内のみ取り扱っていますので注意が必要です。
新聞は絶対だと考えておられる年配の方々に是非読んでいただきたい良書だと思いました。
ウエッブ時代の元マスコミによるマスコミ批判
氏はウエッブ2.0関連の著作が多く、少なからず私も読ませていただいたが、取材の濃さは本書が一番ではないだろうが。
自身が元マスコミであるということから来る使命感もあるのだろうが、冒頭の「元マスコミによるマスコミ批判」とでも言うべき某大手新聞社との対決劇は特に秀逸だ。
フラット化が生み出す新たな難問を提示
「フラット革命」という威勢のいいタイトルとは裏腹に、本書のテーマは“フラット化が生み出す新たな難問”に収斂していく。これまでの著作では、元新聞記者ならでは手腕でグーグル、ウェブ2.0といったネットのリアルが客観的に整理、提示されていたが、本書では自らもネット上の事件の当事者として登場するなど、その趣き、肌合いを変えている。だが、この混沌、未整理、未決着こそが今のネットのリアルだろう。マスコミによる一面的な<われわれ>は崩壊し、ネットの<わたし>が増殖するという流れは誰しもが感じているはずだ。一方で人は自らの世界観の中だけでは生きていくことが出来ない。「どのようにして私は外の世界につながっていけばいいのか?」という欲望はネットの出現によって逆に強度を増している。大塚英志の言う「公民の民俗学」という一種の理想論が本書でも語られている。“つまりは個の確立こそが、公共性につながっていくという考え方”。ところがそれってやっぱ一筋縄ではいかないんだよな。“つまりはフラット化が過度に進行すれば、<公>が消滅してしまうのではないか”というアンチテーゼも著者は指摘している。
もうひとつの、“リアルの人間関係と、オープンな情報共有”の折り合いって論点も難しい問題だ。著者は、“ネットの世界での評価が、そのままリアルの世界での評価とイコールになる時代は、まもなくやってこようとしている”って言うんだけど、僕はそれはちょっと?と思う。ネットとリアルの部分的な互換はあってもいいけど、まったく重なっちゃうのは勘弁だ。逆に、ネットにリアルが、リアルにネットが全面的に流入していかないようにする弁が必要であり、そのひとつの可能性が「匿名」だ。著者が原則認める「匿名」については僕も同じ考え方で、「匿名」はネット上で人格を持てばいい、つまり「通名」的「匿名」は絶対あって然るべきだと思うのだ。
ブログの登場で担保される新しい公共性から私は排除されてしまうのでしょうか
著者のこれまでの本には刺激されることが多く、今回も大きな期待をもって手にしました。しかし本書は私には少々難しく、だからこそ"food for thought"ともいうべき事柄が数多くありました。私自身が考えるべき課題として以下の点を書き留めておきます。
1)難病の少女が米国で心臓移植を受けるための募金活動を、あるブログがこう批判したとあります。(20頁)「心臓移植を必要とする患者数は、提供される心臓の数を上回っており」、少女が「救われる確率が増える分、リスト入りしている他の患者が死ぬ確率が高くなるだけ」。だから「一人の命を救うためにとてつもない大金を集める」活動は「(臓器を横取りされて死にゆく患者)を殺すことを幇助している」。
ということは募金によって少女の渡米が実現すると誰かから臓器を横取りする事態が起きるということでしょうか。移植待ち患者の順番づけに(横取りを許さないような)厳格な規定はないのでしょうか。
仮に横取りが起こるとしても、批判すべきは募金活動ではなくて、横取りしないと救われない命があるという今の移植事情のほうではないのでしょうか。
2)「公共性」はこれまで、メディアに登場する知識人たちが担保してきたが、ブログの拡大によって今や無数の「わたし」が公共性を担保する新しい時代になるという見方が綴られています。(277頁)
しかし、私や私の周囲にいるサラリーマンの多くは無数のブログに目を通す余裕はほとんどありません。ブログによって公共性が担保される時代が来ると、私のような時間のない者はその公共性から排除されてしまうのでしょうか。
また、書かれている内容に大きく頷けるようなすぐれたブログを書ける(公共性を担保できる)ブロガーと、ノイズしか書けないブロガーとの見分けは、私のような駄文しか書けない大衆にはかなりハードルの高いことです。どうしたらよいのでしょうか。
これまでに無かったネット論
深みがあっていい本だと思います。
最近のインターネット関連の書籍のほとんどがビジネスサイドに関するものばっかりであったのに対して、この本は人間そのものがどう変わるのか?公共性はどうなるのか?社会はどうなるのか?といった問題意識を提起している。
一種のルポルタージュになっているので、サっと読めるものでもないが、読み通せば確実に、これは考えなければいけない問題だなという、宿題に似た感じを与える本である。
特に、匿名性が維持されるネット内において建設的な関係性・公共性をどう維持していくのか?という点は深く考えていかなければいけない問題だろう。
ネットビジネスの事例やチャンスを求める人にはフィットしませんが、一種の社会学上の重要な問題意識を提起することに成功していると思う。
ウェブが変える現実
ウェブの出現とインターネット・インフラの整備は社会に大きな変化をもたらした。それは、mixiなどのSNSや、2ちゃんねる、ブログなどによって起こった。それぞれ程度は違うがそれ以前とは圧倒的に違う点がある。発言者の地位や年収など立場に影響されず、発言内容のみに価値が見出されるということだ。これが本書のテーマであるフラット化した社会を構成する要素となっている。
大手メディアが流し続けてきた情報は以前は大雑把に「間違っていることもあるが、まぁたいていは正しいことを言っているんだろう(だって信頼できるメディアが流しているんだから)」というふうに見られていた。しかし、インターネットの出現で個人がさまざまな情報にアクセスできるようになり、また、才能のあるブロガーが自由に的確な批判を権威のある記事や人物にするようになり、以前、漠然と信頼していた媒体が相対化され価値が下がってくる。発言したものよりも、発言そのものが大事になってくる。
しかし、そうやってすべてがフラット化してしまうと、危険な言論が出現したときに以前は新聞やテレビという「公器」が果たしていた防波堤の役割は誰が担うことになるのか。そいういう疑問が提起される。この疑問に対し、著者は互いに批判しあい議論を戦わせることで公共性が立ち上がっているのではないかと書いている。
少し前に「『みんなの意見』は案外正しい」という本などによる「集合知」がネットの本質としてロングテールとともに流行ったが、これは実際に機能していると思う。互いに批判しあうことでおぼろげに立ち上がる議論の空間の雰囲気は案外皆が受け入れやすい妥当なところに落ち着くのではないかと思う。これは、安心できるけれど窮屈な、権力と服従が支配する以前の社会に比べて住みやすいものになるという感じがする。
たとえその新しい社会に参加する人々が以前に比べ分断されていて孤独な戦いを日々戦い続けなければいけないとしても、その戦いの中でセレンディピティという偶然で幸福な出会いを多く経験することができるならば、以前に比べて幸福度の総計という点で考えればそれは高まるのではないかと思う。
インターネットがつくるフラットな空間
筆者の格子は
(1)インターネットの出現により、マスメディアには「匿名言論の登場」「取材プロセスの可視化」「プログ論断の出現という危機の発生
(2)マスコミは総質社会ではないのに総中流を代弁する「われわれ」が記事を書いている。
(3)インターネット社会では「われわれ」でなく「わたし」という個人が枠組みを超えている。
(4)共同体構造は消滅し、社会に対してシビアになっている。
(5)マスメディアの「公」が消滅しつつある。
(6)ネット上の議論は誰でも見える。これが「わたし」が実質「公」となりつつある。
(7)以上から新たな民主主義が生まれつつある。
ということだと思う。将来、ラディカルな民主主義につながっていると思われる。
近未来予想として、面白く読めました。
ネットにとどまらない視野
本書はおもにインターネットがもたらした変化,とくに言論のフラット化 (匿名でも権威があっても「何を言ったか」だけで判断される) と,ウィキペディアなどにおいて意見の集約が困難になっいること,セレンディピティによって人と人とが出会いやすくなったことについてのべている.しかし,それと同時に日本において 2000 年代前半に「戦後世界」のわくぐみとそれを象徴する共同体が完全に崩壊した崩壊したことによって人々がばらばらにされたこともフラット化のひとつであり,それが「出会い系」へののめりこみを生んでいることも指摘している.このようなネットだけにとらわれないはばひろい視野はまなぶ価値がある.
メディアに興味のあるブロガーやマイミクの必読の書
「グーグルGoogle−既存のビジネスを破壊する」、「ネットvs.リアルの衝突−誰がウェブ2.0を制するか」などIT・ネット分野に関する著作で有名なフリージャーナリストの佐々木俊尚氏 の最新作。
「フラット」といえば、トーマス・フリードマン氏の「フラット化する世界」 を想起するが、まさにインターネットという新しいテクノロジーの出現で世界がフラット化する中で、マスメディアと個人の激しい相克が始まっており、フラット化とは何か、これからどういう革命が起こり、僕らの住む世界がどう変わっていくのかについて筆者のネットに関する深い知識に基づく興味深い知見が示されている一冊だ。
そのプロローグには私たちの世界に起こりつつある革命的な変化の象徴として、昨年のタイム誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」としてその表紙にパソコンの画面にミラーを貼り付けた「You(あなた)」が引用されている。(YouTubeやブログ、SNSといったウェブ2.0の出現で今や個人が力を持ち、世界を変えようとしているという意味で今年の主役をパソコンの中の「あなた」としたもの。)
僕がこの本の中で最も興味を引かれたのは、インターネットにおける匿名性の問題だ。佐々木氏は、匿名だから信用できない、匿名だから無責任として、いまだにブログなどの個人のインターネットメディアに対して否定的、もしくは攻撃的な姿勢をとり続ける大手メディアや柳田氏などの一部知識人とは一線を画し、いまだ混沌の中にはあるもののインターネットという力を得た個人は匿名すなわち、肩書きや権威に頼ることなく、ロジックがしっかりしていれば大手メディアもかなわないような力を持ちえると力説している点だ。彼は言う。
「その世界では、匿名というだけで否定されることはない。情報源がきちんと提示され、そこから展開されたロジックが説得力を持っていれば、匿名言論であってもきちんと評価される。もちろん、16歳の高校生でも、小学生であろうと80歳の高齢者であろうと、あるいは会社経営者でもフリーターやニートでも、その属性や社会的地位によって評価は揺るがない。」(P.276)
この事実は権威にすがる人達にとっては、とんでもなく不愉快な出来事だ。だからこそ、匿名性を攻撃しているとも見える。
かくいう僕もブログやMixiが生活の一部になっており、インターネット上での意見交換でそのことを痛切に実感している一人だ。これから何が起こるのか、そしてその革命的変化の中で自分をどう表現し、ふりかかってくるリスクをどう避けるか、いろいろな示唆を与えてくれる一冊だ。
ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を楽しんでおられる方、インターネットでのやりとりに一抹の不安を感じておられる方、メディアの行く末に関心のある方、必見の書です。
