- [著]内田 樹
- カテゴリ:
- 単行本 (231頁)
- ISBN:
- 4062138271
- 発売元:
- 講談社 (2007/01/31)
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- ¥ 1,470 (税込)
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勉強する理由を説明するのも大人の義務では?
勉強しても何の役に立つかわからないから面倒くさがって勉強しない。
それは今の時代に限った話ではないのではないでしょうか?
ドラマ「おしん」の時代でも、学校に通いたい主人公に対し、いかだ職人が「いかだ組むのに文字なんか読めなくても困らないさ」と居直るシーンがありますね。
私の中学時代(四半世紀昔..いわゆる第二次ベビーブーマー世代)でも「ローマ字が読めない」、「アルファベットが読めずに英語の教科書にひらがなを書いてもらう」中学生、「掛け算の九九が言えない同級生」は普通学級にもいました。別にそれらの子が家庭崩壊していた訳でもなかったです。土建屋の社長の息子で掛け算の九九が言えない中学生もいましたよ。
私も幼少期に「この勉強が大人になってから何の役に立つの?」とよく思いましたよ。
国語や英語や社会は使い道がわかるけど、高等数学や物理・化学・生物が社会に出て何の役に立つの?
私も高校時代に両親や教師の口から言って欲しかった。
でも実のところ販売業をしていた両親には、そのような高等教育が何を意味するのか理解できなかったらしい。
「良い大学に入って良い仕事に就くためだろう!」と、内田氏が著書内で書かれている通りの良くある理解不能な返答でした。こんな返答では子供が「ムダな知識を詰め込まれて時間の浪費だ。これだったら外で遊んでいた方がよっぽど有意義だ!」とふてくされてもしょうがあるまい。
教師に至っては「決して意味の無い勉強じゃないんだよ。」と答えつつ、では実際にどのような職種でこの勉強が役に立つのですか?と聞くと「いや、それは俺の立場上言えないんだゴニョゴニョ....」と言って逃げられました。
大学に進んで医療の道を志してようやく、高校時代に習った数学、物理、生物、化学の意味する事がわかりました。
内田氏のいう「何故勉強するのかわからない」子供達に職業別に必要な学問を教えるために進路指導の時間はもっと多く摂るべきだと思う。
一級建築士が構造計算をするには三角関数が不可欠だ。薬剤師や看護師になるには生物・化学の知識が必要だ。自動車のエンジンの図面を引くには物理の知識がなければならない。
少なくとも子供をキッザニアなんかに連れて行くよりは「憧れの仕事に就くにはどのような学問が必修なのか?この学問はどのような仕事の人が使うのか?」を教えた方がよっぽど子供の勉学欲も刺激されるというものだ。
ただ、「勉強するだけムダ」だという若者の絶望感を描いて終わりではなく、高等教育が社会に出てからどのようにスキルアップにつなげられるかという進路指導の改革案を掲げて頂きたかったと思う。
もちろん、全ての社会人に専門技能職になれと言う訳ではない。非熟練労働や肉体労働の方が性に合っているし楽しい人もいる。でしたら、「肉体労働は負け組」と若者に思わせないように、自ら進んで肉体労働を自信を持って選ばせられるように、今の普通科一辺倒の高校教育を見直し、商業、工業、農業、介護科といった職業訓練高校の地位向上が必要だと思う。
「今時の若者は著者の時代とは別」とレッテルを貼ってしまっては、決して今の若者の閉塞感は理解できない。
勉学をする意味が分からないなら勉学の意味を教える事が大切ではなかろうか?
難しくてすかっとする、希有な一冊
社会調査などから引用があるわけではない。
もっぱら著者の視点からの社会評論になっている。
階級・階層論だと思っていたが、
全面的に教育論である。
大学の教員による教育の危機感の表明です。
とにかく書かれていることが難しい。
面白いが脳を総動員して理解をする必要がある。
教育からの逃走、労働からの遁走が大きなテーマだが、
書かれていることが分かったときにすかっとする。
そんな一冊。
本田、玄田先生と併読は必須です。
電車内の会話
読みやすかったけれど、読んだだけのときはへえーそうかなという感じで実感が
伴わなかったですが、今日電車の中で以下のような男子高校生5人組の会話を聞いて…
「教師もメシ食うのに必死じゃん?でも**(先生の名)の仕事って無駄多くね?」
「向こう(教師)は好きで(授業)してんじゃん?でも俺ら好きでやってるわけじゃないじゃん?やらされてんじゃん?」
「こっちは金はらってんだぞってなあ」
「向こうはプロじゃん?でも俺らはプロじゃねえじゃん?」
「この矛盾だらけの状況にストレスたまりまくり」
この会話を実際聞いて、うーん、本の言ってることはあるかな〜と思いました。
(このあとに「最近人殴って無え〜」と続くのであれあれ、と思いましたが)
本の内容からすると彼らは下流志向グループということになるのかなと。
自分が学生だったころにこういうマインドがなかったかというと、
「やらされてる感」は多少あったような…しかし先生が対等な取引相手(払った金に対して同等のサービスを与えるのが当然の相手)とは思ってなかった。と思い、
読むに足るところもある、と思いました。
社会派をきどっている文学作品
自分がこんな本を読んでしまったことに腹がたちました。
誰かが頭の中で一生懸命ドッジボールをして作り上げた妄想なんて読みたくないんですよ。無駄な概念を考えることが好きって人には良いでしょうが。
文学作品と書いてあったら読まなかったのに!
著者は言葉で概念を弄んでるだけです。だから現実を見る上でほとんど役に立ちません。哲学が終わらないと宗教は始まらないので、次に宗教的な時代が来るってわかってるなら著者も時代に乗り遅れないように頑張って欲しいです。
ではどうしましょうね
「この勉強をしてなんの得があるの?」と聞く子供、選択肢があるのにあえて
働かない・学ばないという道を選択したニートについて、「こういう考えで
彼らはこうしてるんだよ」と著者なりの考えが述べられている。
「本の紹介」にある通り、の専門は文学・思想史だ。ゆえに、実際に子どもや
ニートにインタビューしたうえでの分析ではなく、あくまで著者の知識をもと
にした仮説である。
著者の学問的な分析に対し、無知な自分は「なるほど」と思う部分も多かった。
しかし、それはあくまで著者の仮説である。著者も自覚されているが、解決へ
向けての処方箋が示されているわけでもない。ま、一般人はいろいろな考えに
触れた上で、問題解決のために何が必要か考えましょうということか。
なぜ自ら降下の道を選ぶのか
昨今、フリーターやニート(この両者は本来、別々に論べき存在であるが)に代表されるように社会的格差についての論説が花盛りである。そして、その原因の一つに挙げられるのが教育の問題である。本書は「学びからの逃走・労働からの逃走」を主題にして若者たちの新しいライフスタイルの解明に挑戦している。
講演を書籍化したと言うことで、精緻な議論や厳密な論拠があるわけではない。
だが、その分、論理性を高めるときに削ぎ落とされてしまう現実味が十分に生きている。
「受験に関する限り、学力がある必要はないんです。競争相手が自分より学力が低ければ、入試の選抜結果は同じですから」(P17)
「「不快」のカードを家庭内で一番たくさん切れるメンバーが、家庭内におけるリソースの配分や、決定に際しての発言権において優位に立つことができる」(P56)
「「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます」(P72)
「「青い鳥」を探すのは悪いことではありませんけれど、みんながあ「青い鳥」を探しに出て行ってしまったら、あとの始末は誰がするのか」(P128)
「今している仕事で高い評価を得られない人が、他からより条件のよい仕事をオファーされるという可能性はあまり高くないでしょう」(P130)
個人的にはこのような「ぶっちゃけ」トークに近い部分に共鳴を抱いた。
実感として感じてはいるが厳密な論議には挙げにくい。ただ、やはりこのような実感から議論をスタートしていく必要はあるだろう。勿論、文中には厳密な議論も多く含まれている(というよりきちんとした論説が大部分である)。
非常に読みやすく、かつ昨今の主要な格差論をふまえた刺激的な論説になっている。
社会で起きている不可解とも言える動きを知るためには必須の参考文献の一つになるであろう。
明快な教育論の巨大な矛盾
内田樹氏の教育論。講演記録でもあり、読みやすく、また論旨も明快だった。ただ明快といっても、それは商品と貨幣の交換のような透明性に還元できない歴史や伝統や師弟関係という、いわば人間の不透明な根底の意義を再確認するというもの。つまり不透明なものの意義を明快に語るという意味での優れた教育論だった。ラカン『精神病』を引用して主張されるように、「人間は何かを見たけれどそれが何であるかを決定しないということができる」(23)(以下、カッコ内の数字は本書の頁数を示す)唯一の存在。この未知の存在に耐えるということは、ある意味で精神の強さでもあるだろう。それは人生や学問上のテーマあるいは難解な書物に取り組むとき、かならず必要とされる姿勢だからだ。
ところがテレビやゲーム機など現代の子供たちを取りまく環境は、その場で即座に把握できるもの、決して疑問を残さないものばかりだ。かりに疑問はあっても、そこに止まることは求められない。内田氏は「矛盾」という言葉を理解できない大学生との出会いから、これと同じような認識に至る。その大学生は、それまでに幾度となく「矛盾」という言葉に出会ってきたはずだ。しかし、彼(女)は、わからない言葉に出会っても、気に留めることなく記憶から消去してきたのだろう。このような学習姿勢から、「先生の言っていることが、私にはわからない」という「ふつう学生にとって自己評価が下がる」ような発言をする「小学生的」な学生たちが生まれてきた(19)。このような姿勢を生み出した最大の環境要因は経済社会の進展にある。「今の子どもたちと、今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだ」(38)という指摘は卓見だろう。
すべてが経済的に数値化されるという社会のあり方は、教師の評価にも及んでいる。現在では、教師は教科知識や指導力によって格付けされる対象として眺められている。しかし、そもそも「教える/学ぶ」という関係は、そのようなあり方では成立しない。「学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命」(65)だからだ。
それでは本来的な師弟関係とは、どのようなものか。それを内田氏は映画『スターウォーズ』と『二十四の瞳』によって論及する。『スターウォーズ』では、「弟子の方がメンター(師匠)よりも腕前が上になってしまうという逆説が物語の縦糸になって」(177)いる。しかし、もしも弟子が「俺の方が才能がある。俺の方がもう師匠よりも強い」と言い出して、「弟子が師匠の持っている技術は自分のそれと比較考量可能であると考えたときに、師弟関係は破綻」(177)する。その結末は、どうなるのだろう。「アナキンに背かれたあとも、師匠のオビ=ワンの方はジェダイの〈騎士道〉につながっている。オビ=ワン自身の師匠のヨーダに対する深い敬意は少しも変わらない。だから、弟子のアナキンに離反されたあとも、オビ=ワン自身は成長を続けることができる。師を超えたと思った瞬間にアナキンは成長を止めるけれど、師は超えられないと信じているオビ=ワンは成長を止めない。」(179)こうして弟子のアナキンは師であったオビ=ワンに打ち負かされてしまう。
内田氏は、戦後日本人はアナキンと同じく師弟関係を計量可能なものと見なす誤った思考回路に陥ったのではないかと、指摘する。そして本来的な師弟関係を回復すべきだと主張している。それでは「人の師たることのできる唯一の条件」とは何か。それは、「その人もまた誰かの弟子であったことがあるということ」(178)につきる。「弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ」(178)と。その際に「弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得る(…)。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし、小さな環もある。二つ並んでいる環の後の方の環が大きいからといって、鎖そのものの連続性には少しも支障がない。でも、弟子が〈私は師匠を超えた〉と言って、この鎖から脱落して、一つの環であることを止めたら、そこで何かが終わってしまう」(178)。
日本の現実は、どうだったのだろう。たとえば理想の教師のように思われている『二十四の瞳』の大石先生は、実際の映画では生徒が悲しいときにはともに泣く無力な一女性でしかない。しかし、そのような女性でも教師としての務めを果たすことができていた師弟関係が昭和初期までは社会的に成立していたという。(『二十四の瞳』の教師論については異論があるが、ここでは述べない。)
そして内田氏は、こう結論付ける。「教育を再構築するというのは、この師弟関係の力動性、開放性を回復することから始めるしかない。〈師弟の物語〉にもう一度日本人全体が同意署名すること。これはマインドセットの切り替えだけですから、コストはゼロなんです」(184)。教育論は人間関係論であり、その意味で本書の射程は広い。ただ最後に「マインドセットを切り替えるだけだからコストはゼロだ」という表現が飛び出すところに、どうしようもない違和感を覚える。師弟関係を計量可能なものと考える経済的発想に異議をとなえてきた本書の最後に、主張の有効性の理由として「コストはゼロ」だからと述べるのは、どういうことなのだろう。これは作者の失策というよりも、私たちが身をおく巨大な経済的環境と、そこで真の人間関係(教育)を培っていくことの大きな矛盾と困難を期せずして示しているのではないだろうか。
学習・労働意欲低減の原因を追究したユニークな説
推敲を重ねた著作ではなく、著者の慨世の思いがほとばしる講演録を整理した本で、その軽妙な語り口が読者に親しみ易さを感じさせる一方で、論理展開の精緻さには物足りなさが残る。
ユニークな主張がある。子供の学習意欲、若者の労働意欲が不充分なのは、決して怠惰なのではなく、学習や労働から遠ざかろうとする積極的な努力であるとする。貨幣経済の蔓延で即時(著者は「無時間」と呼ぶ)の等価交換が価値観の基準になり、就学前から子供は有利な交換条件を求める習性が身に付いている。学習や労働が「苦役の提供」と認識され、それに見合うメリットが即座に与えられないと感じる場合には、苦役の提供を制限することで取引価値が低いことを明示する努力をしているのだという。学習・労働を拒絶し「世におもねることなく自分の好きなように生きる」という美学が、中長期的には下流を志向しているというのが表題の趣旨である。
確かに蓋然性はあるものの、俄かに100%は信じ難い、信じたくない気持も起こる。しかし説得力ある対案がある訳でもない以上、読者はこのユニークな説を充分傾聴し反芻するのが正当な本書の読み方であろう。
空恐ろしい仮説と将来像
読み飛ばしの能力、オンタイムでの報酬を求める、自己責任として自らの将来をも捨ててしまう、自分にかぶる責任を上手く他者に転換することが、クレバーな社会人としての像・・・・・など、興味深い仮説によって講演は進んでいく。
初めてこのような仮説を知り、得心する部分もあったが、多くの部分がこの仮説に本当に当てはまっているのか?と首をかしげながら読み進む。
Q&Aになり、現状を踏まえた上での将来像や、それを社会としてどう受け止めるのか、どうこれ以上の“自己責任によって将来を捨てた人たち”を生み出さないか、減らせるかについても言及している。
コミュニケーションがなくなり、連帯や団結が労組だけでの死語になっていることこそ、社会が鵺の様なクウキに乗っ取られ、社会不安が増大しているのは事実だが、やられる側の弱者がバラバラにされ、やる側の強者が連帯して被害者を生み出している構図に、弱者が気付き、自分の周りから変えていかねば、今の日本の方向性は変わらず、生き難くなるばかりだとの点については、深く賛同する。
自家悶着
著者が批判する商業主義で目先で売れる本しか作らなくなった出版業界に媚を売ってやっつけ仕事で書いたような大多数の本とどこが違うのか理解に苦しむような本。中身がなくても業績だけは次々と生み出して校名を高めてくれる著者のような大学教授は現在の大学経営サイドからすると得がたい人材なんだろうな。大学で若者が勉強したくなくなるのもわかるような気がする。その方が結構正常な反応だと思うのだが。
