- [著]原 武史
- カテゴリ:
- 単行本 (284頁)
- ISBN:
- 4062139391
- 発売元:
- 講談社 (2007/05/19)
- 価格:
- ¥ 1,785 (税込)
- Amazonポイント:
- 17 pt
- 在庫状況:
- 通常24時間以内に発送
ユーズド商品:¥ 920 より
思わず、そんな事あったあった
この著者の記憶力と怨念には頭が下がる。
全生研による「集団作り」、戦後の民主主義が陥った罠。
民主主義と社会主義の表裏一体の危うさ。
一人の少年の目を通してあぶり出されていく時代と教育。
なかなか読み応えあります。
さまざまな語りのトリックが埋め込まれており、語り手は免罪されてしまう
本書が著者の一人称で書かれていることの問題点は、まず現在の原氏と原少年の区別が曖昧になる点。さらに読者の想像的同一化を招き、語り手への批判的意識を抑圧してしまう点。
第1点について言えば、原少年が第七小学校の集団主義的教育に対して抱く違和感に、かなりの頻度で現在の原氏の解釈が遡及的に投射される。例えば「私は言葉によって説得される前に、身体ごと集団に同化させられてゆく感覚に、何ともいえない気持ち悪さを覚えた」(p168)という件りは、どうか? あるいは6年夏の林間学校でのキャンドルファイアーについての、「児童どうしが言葉を発するよりもはるかに強い一体感が、最後には醸し出された。/だがもはや、その一体感に私が心を奪われることはなかった。/炎や松明が、合唱と同様にナチス・ドイツで重視されたことについては、多くの指摘がある」(p232)という記述の展開。原少年はまるで、愚民どもの只中に立つ孤独な思想家だ。
もう一点。原少年は受験をめざし四谷大塚に通うが、その動機は小林次郎の母親に代表されるような「多くの親」の場合とは異なり、「いい中学に行き、いい大学に進学したいという立身出世的なものとはかなり異なっていた」(p250)、とある。ここでは親の期待と本人の願望が混同されている。原少年が七小では数少ない四谷大塚会員の一人となったのは、「七小の授業に不満を抱いた」両親の強制によるが(p67)、四谷大塚を選んだ時点で、そこに「多くの親」と共通の期待があったと考えるのが自然ではないか? そして七小における原少年の孤立感には、そうした家庭文化が影響していたのではないか?
原氏は自分が四谷大塚に通わされたことについて、「全くいい迷惑であった。私はいまでも、この時点で中学受験戦争の権化というべき四谷大塚と関わりをもったことを恥ずかしく思っている」(p67)と回顧する。しかし本書中の記述は、自分がどのように順位を上げていったかに終始するし、最初に受けた4年会員選抜試験は「ろくな準備もしないまま」(p67)受けたので「4点足らず、不合格」(p71)だったとか、開成に落ちた経緯についても、模試では合格判定だったが、本番で「あの集団から逃れられるか否かが、この席で決まるのだ」(p263)という緊張感から集中できなかったと、まるで七小のせいであるかのような書き方も気になった。
熱いものを見ると冷めてしまいます
私は80年代に中学受験というものを体験した世代ですが、著者の時代から四谷大塚が
あり、中学受験という世界があったのかと感慨ひとしお。著者の子供時代の
話として物語的に読めたら、もっと楽しめたかなとも思います。しかしかなり
冷めていながらも、体制に対しての疑問を未だに持ち続け、本にしてしまうところ
に本当の意味があると思っているし、この本から学んだ事は多い。私が小学校3年生
の頃に1クラスだけ妙に連帯感が強いクラスがあり、教師も金八先生よろしく、
皆と仲間だ!というのを強調してる風がありました。私は横目でそのクラスを
見ながら、しらけてたのですが、私のクラスの一人と、その熱血クラスの一人が
校庭で喧嘩になった時、間に割って入って、止めろと言ったのが熱血クラスの一派、
子供ながらに、普通取っ組み合いになって先生が止める図式を普通と思っていたので
かなり衝撃的だったと同時に、クサいな〜と更にしらけ、良かった、このクラスで
なくてと思った自分・・・この本を読んで思い出しました。
今、逆の流れが恐ろしくはないか?
私も多くのレビュアーと同様、著者とほぼ同い年だ。育った地域はほんの少しずれがあるが、受けた教育は同じだと感じた。ただ、幸いなことに、これほど感受性の強い子どもではなかったので、何となく違和感、というぐらいにしかとらえていなかった。その違和感の正体をこれほど鮮明に分析され、驚くと同時に、知りたくなかったぜ、という気持ちも少しある。
ところで、今の教育、逆の方向に危ないような気がする。我々より若い世代に、悪気のない(ここが大事だ)戦前回帰の気配がある。「武道」の必修化、「伝説」ではなく「神話」を教える(ひょっとして天照とか?)、宗派を問わない「宗教心」を育てる、こんな新学習指導要領を不気味に思うのは、私だけだろうか。
左右どちらにも偏らない教育は、そんなに難しいのだろうか。
著者の記憶力に驚きました。
こう子供の頃の記憶を淡々と語ることはそう容易ではないと思います。その意味でこの本は本当に凄い。
所々に鉄道や自転車の旅など、読者を思い出話が織り交ぜてあって飽きがこない内容でした。
ただ終盤が期待したほどの盛り上がりでなかったのが残念。あれ?これで終わり?という感じでした。まあノンフィクションですからしょうがないのでしょうが。
まさに共産教育
学生運動の余燼くすぶる昭和40年代後半は、今思えば左翼教育が幅を利かせていた。
本書では全生研に傾倒した教師が調教したクラスが、児童会活動を通してほかのクラスに浸透し、
PTAを巻き込んで学校の主導権を握る過程が描かれている。
多彩な班活動で児童を競わせ、成績の悪い班は連帯責任をとらされる。
やがて教師に洗脳された児童は、「全生研思想」の尖兵となって非協力的な著者を糾弾し自己批判を迫る。
著者は連合赤軍の「総括」に例えているが、なにやら文革時の紅衛兵のように見えてきて薄ら寒くなる。
これが狡猾なのは、児童が自主的にやっていると装って、実は教師が振り付けをしているところだ。
著者はこの時の「総括」がトラウマになり、合格確実の開成に落ちてしまう。
ただ、「全生研思想」の押し付けを、昨今の卒業式の国旗国歌義務化と同等視する記述には違和感を覚える。
著者自身が危惧したとおりに
ほぼ同時代を生きたものとして、レビューの高評価に惹かれてかなり期待して読んだ。
正直なところ落胆が上回った。
背景となる社会情勢の分析はともかく、著者の小学校を舞台とした主たるストーリー展開が主観的に過ぎるのだ。
著者自身が自省して最後に書いているように、『学者が「私」を主人公とする物語を書くのは禁じ手とされている。(中略)自伝めいたものを記すことは、常にナルシシズムに陥る危険を伴っている』。まさにその通りになってしまったのだ。
「私」の感情が痛々しすぎて感情移入できない。いまどきに言えば、小学5年生の筆者は早めの中二病にかかっていただけなのではないのか。言い切ってしまうとかわいそうだが、本書はそう思われてもしかたないナルシシズムに溢れている。
「俺だけがわかってるのに、みんななぜわからないんだー」。
それを四十路を越えた大人の私が振り返って全肯定して、他の子供たちは無邪気に洗脳されたかわいそうな子羊に描かれている。第三者には「私」こそ醒めて人を見下した皮肉屋の子供のようにも読めるのだが、やはり自分は可愛いのだ。
かといって、ここに描かれている「学級集団作り」「ボロ班」「追求」が実践されたことなど、当時の学校教育の現場の記録としての価値があることはまったく否定しない。むしろ高く評価したい。
もっと冷静な視点で書けていたら、もっと文章が巧みなら、違った評価になっていたかもしれない。故郷の東久留米の今昔のうんちくも感傷的な鉄道の話も、土地勘もなく鉄オタでもない人にとってはまさに脱線でしかない。当時の先生や同級生たちを呼び捨てにしているのもどうも読んでいて居心地が悪い。
当時の議事録や文集などを細かく調べ、団地や学校の人数の推移、何月何日何時から何時まで、何人が参加して何があった、という細かいデータは執拗に記載しているわりには、肝心のところは「憶測の域を出ない」(p203)とか「想像に難くない」(p248)というのはがっくりである。
幸運にもキーパーソンである「小林次郎」と「中村美由紀」にせっかくコンタクトが取れたのなら、食らいついてでも深く聞き出し、彼らの生の言葉を記すべきだった。逆に彼らから「私」がどう見られていたかも含めて、主観を中和するためにも相当の量の証言が必要だろう。テーマが秀逸なだけに、手続きの不手際が際立って残念である。
続編を書いて欲しい・・・・
著者とは数年の生年の違いがあり、
また、小学校教育を受けた地域も異なっています。
しかし、生徒会選挙や班活動に関することなど、
忘れかけていた思い出がリアルによみがえってきました。
私は、どちらかというと体制よりの良い子では
ありましたが、生徒による学級会の運営などには
息苦しいものを感じていました。
また、サッカーなどの球技でも、
ちょっと長くボールをキープすると
「個人プレー!!!!」と糾弾し合っていた
ことなども思い出しました。
こういった教育の背景にソビエトの教育思想が
あったとは驚きです。
ソビエト式教育を受けた世代が、その後
社会に出て、どんな活躍をどのようにしているのか?
是非、続編を書いてもらいたいと思いました。
共同体を探して・・・。
本書冒頭、著者が滝山団地を訪れる道すがらの上手な情景描写(何かを予感させ、またもの悲しさと回顧感を感じさせる)から本書にぐいぐいとひきつけられてゆく。滝山コミューンを成立させたクラスでは、全共闘世代の教師により、主体性を持ち、皆を助け合って生きてゆく、という指導を受ける。自分よりみんな、平等を、と教師が指導を行うが、それは共同体を志向するものであることもあり、簡単に全体主義的な圧力をまわりのクラスにも及ぼしてゆく。他人より自我の芽生えが早い早熟な著者は、そこにいくつもの疑問を抱く。筆者は、そのような圧力から東京への塾通い、という方法により居場所を作ることで逃れようとする。そして、進学校に合格することにより滝山団地という狭い庭から、開かれた外の世界に出てゆく。全体主義になってしまったことは、非常に残念なことだが、だから教師たちは間違っていた、というのは短絡だろう。彼らの理想と熱意を現在の教師たちは果たして持っているのだろうか。また、クラスの全員に全くためにならず、トラウマしか残さなかったかも一考に値するだろう。筆者が、滝山団地を訪れたのは、このようなことを、まさに全体主義的なことが行われたその場所で考えるためであったと思われる。筆者は、理性で否定しつつも小学校での合唱中に自我が消失して全体に包み込まれた感じを受ける。そしてそれは、その後味わったことのない非常に強い感動であった。この感覚は、おそらく私がオーケストラで演奏しているときにたまに感じうるものと同じであろう。そこに自分がいなくなる感覚。一つになる感覚である。能力主義や実力主義や自己責任が強調され、個々人の等質性が失われたこの時代にあって、連帯、共同体を志向するのも必要なのではないか、と考えされられる。勿論、全体主義に陥らずにである。この本のラストはそのようなメッセージを空中に漂わせながら終わってゆく。筆者にも結論が出ていないのだ。ちなみに私の父は4千冊の本を持つ高校教師であったが、本書を勧めたところ、非常に面白いと言っていた。他のレビューにあるような後半の失速感などはなく、開いたら手が止まらないはずだ。
今の若者には実感出来ないかも
私は今36歳ですが、私が小学生の時分でも、まだまだ日教組の力は強く、朝日新聞を
読むことを強く勧められ、何故「君が代」を歌ってはいけないのかを真面目な顔で
教師が生徒に語っていました。勿論、この滝山団地ほど極端ではありませんでしたが。
ただ、残念なのは一部著者の主観が強くなり過ぎてしまい、読んでいてつらくなるのと
最初から最後まで平坦に物語が進み、盛り上がることなく終わること。特に前者について
は、もっと客観的な視線で描けれていれば、もっと興味深かったのでは、と思いました。
西武と東急の違いについても、指摘はあながち間違いではないかも知れませんが、東急
沿線(特に田園都市線)ってそんなに良い?と横浜の海岸近くに在住する人間は思って
しまいますが。
