- [著]五木 寛之
- カテゴリ:
- 文庫 (308頁)
- ISBN:
- 4062730103
- 発売元:
- 講談社 (2000/11)
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カラカラになった喉を潤すもの
この本の題名に使われて以来だと思いますが「他力」という言葉を目にする機会がとても多くなったように感じています。他力本願という言葉は、他人任せという意味でよく使われ無責任をなじる時に使用されます。しかし、本当の意味は、煩悩を取り払い悟りに達するには自分の力だけでは到達できないものだということです。現代風に言えば、人は地球環境によって生かされているということだと思います。この本には100篇の文章が掲載されています。最後の章に、日本は湿潤な風土である場所に合理的で乾いた文化を育ててきた。その為に心もカラカラに乾いてしまったのだ、とお書きになられています。日頃ぼんやりと感じていることを小説家は見事に言葉にするものだと思いました。この乾ききってカラカラになった喉を潤すのは、「他力」に代表される仏教の教えなのだと思います。五木さんの最近の仏教に関する著作は一貫してこのことを為されているのだと感じます。
「他力」の使用に五木流宗教観が表出されている
2ページで1章にまとめられた文は読みやすい。だが、雑多な文と著者自身が言うように、随筆文が「他力」「蓮如」というキーワードで編集されただけの本。同じレベルで同趣旨の発言が幾度も出てくるため、著者の考えを理解するのには役立つが冗長感と1歩踏み込ませる深さに欠ける思いにとらわれた。「他力本願」ではなく「他力」、「南無阿弥陀仏」ではなく「ナーム・アミータ」のつぶやきに五木流宗教観が表出されている。西欧に厳然としてある資本主義の根本精神が欠落したままで、市場原理、グローバル・スタンダードに突き進む日本現代社会の危うさに対する著者の批判的視点と応仁の乱前夜に重ね合わせた社会分析は一読に値する。現代社会に蓮如が生きていたらという仮定での行動予測は興味深く読めた。いまこそ〈悲〉の思想が必要というところを、もう少し突っ込んで述べた章があればよかった。
この人はどこまで
考えさせてくれるのか。
いつもたのしみである。
100問を解いてそして明日がみえるのだろうか。
自力から他力を。
他力とは占いに似ている。
良く自分にみかえればそれを良しとし。
はずれればこのーーーとなる者もでるのだろう。
いずれこの本からまた旅路へとむかうのであろう。
わたしたちはあなたの考えの行き着くところまで
追いかけることができるのであろうか?
問いかけに問い掛けてみたくなった。
ぜひあなたもといてみてください。
自力だけの考えでは、行き詰る
現代のプラス思考・・・真っ只中にあって、自力だけで生き抜くことのできなくなる時に、本書は、とてもいいアドバイスをくれると思う。
若い頃は、勢いとエネルギーで押していけても、ある時期、枯渇するときに、「他力」もありよ!と言ってくれると、世界観が変わる。
人生の折り返し地点で、トータルな自分の位置を見極めようとするとき、がむしゃらに進むだけでは、開けなかった扉を開くヒントが本書には書かれていると思う。
◎!!
人生論なので読み手のそれぞれの人生への視点によって、多用な読後感を生み出すに違いない。
「大河の一滴」も読んだが、つまるところ、我々人間は自然の一部にすぎず、力まず、自然にまかせて生きるのが、自然と調和した生き方で楽になれるらしい。 そういう意味では、「他力」も言わんとするところは同じ様な主旨と感じ納得した。
己の能力だけで努力努力と「自力」だけでは、力んでしまい、苦しくなる一方であり、時に「他力」に任せるのが良いらしい。「我々は、おおいなる大自然の一部であり、故に一人で無理せずに「他力」を当てにするのは、実は、悪いことではないのだよ」と五木氏が優しくさとしてくれた様に感じた。「自力」を忘れず、がしかし「他力」に頼るでなく任せるのがいいらしい。
時には他力
前半は、よい内容だと思ったが、後半から繰り返しのようなことが多くて、少し退屈な本だった。蓮如礼賛の感あり。蓮如についてはあまり知らないが、興味を持つことはできた。他力という考え方は、悪くないと思う。また何年かして、再読すれば読後感は変わっているであろう。まあ、心に余裕がないときには、こんな本もよい。
「はげまし」から「なぐさめ」へ。
「努力がむくわれることもまた、まれにあります。めったにないことだが、絶対にあります。努力がむなしいなどとは決して思いません。しかし、それはこの世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるのであって、それ以上ではないのです。」(19ページ)
「努力は必ず報われる」という信念、ないしは信仰が戦前戦後を通じて日本人を支配してきた。もう、いいかげん、卒業するときが来たのではないか。
どんなに努力してもダメなときはダメなのだという自明の真理を、あえて見ようとしない考え方が、どれだけ人々の心を傷つけてきたことか?
「自力」と「他力」は人間関係においてはそれぞれ「はげまし」と「なぐさめ」に対応するのであろう。どうにもならず落ち込んでいる人間に「はげまし」はかえって危険である。
五木寛之はやさしく読者のかたわらに立って「なぐさめ」の波動を送り続ける。
五木寛之氏の”風にふかれて”
ここ十数年、五木氏の関心と著作は人生論に集中している。恐怖とは異なる先の見えない不安の蔓延するこの時代、五木氏の説く混迷の打破は他力である。法然、親鸞そして蓮如と鎌倉仏教の時代に形成されたこの思想に、氏は遠く続くトンネルの先のほのかな明かりのようなヒントとして論考している。個人主義、自己責任社会、実力主義といった言葉が時代とともに加速する現在、”他力”はボブディランの歌のタイトルではないが、自分ひとりの力ではどうにもない問題を解決する、一筋の救いの風として、灯明のように暗闇をほのかに照らしている。
他力?
三部作だそうで、他の本と重複している内容が多い。他力か?
私は五木寛之の読者で、他力という概念も充分わかる。この一冊だけ読むなら、いいチョイスかもしれない。しかし、間違っても、他の本をネットで注文しないでほしい。書店で手にとって見てほしい。あなが読んだことがある文章は少なくないはず。特に、昨今の五木作品に、その傾向は顕著だ。
できれば、五木が才能を宿していた時期の本に触れて欲しい。サンカ関連の内容も、今では商売ネタと思わざるを得ないが、五木が先鋭的だった時代もあったのだ。
「大いなるもの」
今流行りの「自己責任」と言う言葉がある。
私は20歳を過ぎたら、常にその言葉を念頭に置かないといけないように、9年半程前、精神科医のカウンセリングを受けるようになってから、固く信じざるを得なかった。
責任転嫁こそ、自分の1番の「悪」だと。
それはそれで、生きて行く上で、大切な「自戒」だと今でも思ってはいる。
しかし、五木寛之の本を読むようになって、私は自分なりに「仕合せ」と呼んでいた、自分の努力では変えようのない「運命」のようなものの存在を、信じ続けていても間違いはないんだなと、肩の荷を降ろしたような安堵を得た。
五木さんは、それを「大いなるもの」と呼んでいる。
神」や「仏」を越えた存在を指すのであろう。
私は以前から、なにか言葉で言えない、今の自然科学がいつもぶち当たり、直視するのを避けている「何か」の存在を、信じ続けていた。
ビッグバンが何故、起こったか?
DNAゲノムが何故、生まれたか?
(私が知らないだけで、既に解明されていたら、ごめんなさい。
私の生半可な知識が原因ですから。)
そんなのは、ごく一部だが、それらの現代の人間が解き明かせない問題を、「『大いなるもの』が様々なものを動かしている」と、大昔の人間が考えたように、素直に、謙虚に認めることも、大事なんじゃないだろうか?
私が五木寛之という作家に「再会」したのも、何かの「ご縁」である。
思い付くまま書いた、取り留めのない文章であるが、推敲して、何を云わんとするか、まとめる時間がない。
要は、「大いなるもの」を、「超自然現象」とか「新興宗教」的に安易に捉えるのでなしに、大自然に「生かされている」人間として、素直に、謙虚に、受け取りたいと、私は考えるのだ。
