- [著]東 浩紀
- [著]大塚 英志
- カテゴリ:
- 新書 (327頁)
- ISBN:
- 4062879573
- 発売元:
- 講談社 (2008/08/19)
- 価格:
- ¥ 903 (税込)
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評価不能
本書は2001年、2002年、2007年に発表された3本の雑誌対談がベース、
「終章」としてアキバ事件をめぐって新たに語り下ろされたごく短い対談をプラス。
ただし、副題の妥当性に関してははなはだ疑わしいものがある。
最初のふたつの議論に関しては、一応それなりの内容を伴ってはいる。加筆が
施されているとはいえ、現在進行形のテーマとして十分に読むに堪えるレヴェルには
達している。
「固有性」と「偶然性」に関する対話には両者の思想スタンスの相違が典型的に
現われている。そうは言っても、大塚自身が半ば認めるように、人間のあり様に
統計やマーケティングを超えるものなんて何もない以上(せいぜいあったとしても
それは目をやる必要もないようなトリビアルな誤差以上のものではない)、
彼の表明する違和感や薄気味悪さそれ自体は分からなくもない反面、
対話そのものが徒労との感もどこか拭えない。
2007年の議論は無内容。そもそも「公共性」という語の定義やその可能性、
知識人像等をめぐって、双方が共約不可能なほどに乖離しているがために、
みっともないヒステリーの応酬に終始。
2008年の議論も退屈。
それ自体が本書の主題のひとつには違いないのだが、おそらく10代、20代の
読者の多くにとっては、世代間パラダイムの非共有ゆえに、大塚のスタンスには
「何言っちゃってるの、このオッサン」との呆れを誘われずには
いられないのではなかろうか、との感が個人的にはある。事実、対談における
東とのギャップですらも相当なものなわけで。
ギャップがあるのはもはや自明、しかしそれでもなお対話は可能か、というのが
非常に興味深い点であり、そしてまた、公共性のもとにその対話を回復しようとする
大塚の努力は見えないことはないのだが、ただし、あまりに論理的な能力が稚拙、
正直、破綻を目の当たりにした失望感ばかりが読後感として残った。
‘おおつかえいじ’のゆくえ
驚くべき本である。2001年からの対談が掲載されているのだが、一貫して東氏に対して批評家としての責任を追及していた大塚氏が(東氏の附記を信じるならば)自身のあとがきを削除して、さらに第一章の三割ほどを削除したそうである。それに関しての説明は何もなされていない。これでは何か大塚氏の都合の悪いことでも隠そうとしたのかという疑義を持たれても仕方がないであろう。大塚氏が本書で散々言っていた批評家としての責任とは一体何だったのだろうか? このことに関して大塚氏が何かコメントをしても私は大塚氏の言説をもう信じないし、今後の大塚氏の批評も信じることはない。これほど後味の悪い本もなかなかない。
読む人を選ぶ本です
多くのレビューにある通り、東浩紀氏と大塚英志氏に関心がある方、既に著作を読んでいる方以外は読む必要が無いでしょう。対談なのですが、非常に分かりにくいです。
・同じことを繰り返し記述してあり、読んでいて非常に疲れる
・但し、対談の臨場感はある
・暇つぶしの読書には向いていない。ある程度気合いを入れて読まないと訳が分からない
とは言え、私個人としては東浩紀氏の著作が好きですので、それなりに楽しめましたし、何とか読み通しました。
別の意味でスリリングな対談
対談(とくに出版されるようなもの)はふつう、ある問題設定のなかで互いの意見を主張しあって、意見の違いがありつつも、話すにつれてお互いの拠って立つところや共有できるところが明らかになり、2人に信頼感が生まれ、そのプロセスを読者も体験する。そういう仕組みだけれど、本書はそもそも二人の問題設定が徐々に離れていって、最終的に絶望的な距離を生んで歩み寄る余地も見出せないまま終わる。なかなかそういう対談も珍しいし、噛み合わないなりに、二人がなぜ噛み合わないかを二人で(特に東が)対談しながら分析するという、対談本としては不思議な展開を見せるので、読者は不思議な緊張感とやりきれない違和感を持ったまま読了することになる。内容よりも2人のすれ違いや議論がかみ合わないイライラがスリリングです。
家族、友人、身近なコミュニティ、地域社会、国家という同心円があり、それらはつながり、影響しあっているのに、多くの人が小さなコミュニティのなかでのみものを考えて、国家や社会について考えるのを避けている。それならば、再度「公民」を構築するべきではないか、その啓蒙が知識人の責務ではないかと考える点で、大塚は近代型の知識人像を踏襲しているし、世の社会論・国家論はほとんどそういうフレームワークにおいてなされている。一方で東はその前提そのものを否定する。もちろん個人として「公民」への理想はあるけれど、それを他人に要請していくことは無理だ、そういう時代はとうに終った、と。その諦めに対して、大塚が納得いかない。東の前提や立ち位置そのものを問題にし続け、無理なものは無理だ、それを責められても困る、と東は困惑する。このすれ違いは、貴重な記録だと思う。
知識人の誕生
「知識人」なるものがかつて存在しました(エドワード・サイード「知識人とは何か」平凡社ライブラリーをご参照ください)。本書で個人的におもしろかったのは、「おたく」「オタク」への二人のこだわりではなくて、現状を分析し解説する東さんが、「あなたはそれでどうしたいのか」と書き手の立場と責任を迫り続ける大塚さんに対して、秋葉原事件を受けた最終章で「転向したといわれるかも」と留保しつつ、知識人の責任に言及することです。読者の啓蒙へと一歩踏み出した知識人・東浩紀の誕生です。ここが一番興味深かった。今までそこからは逃げていたし、逃げることが理論的な支柱になってもいたと思うのですが。東さんの転換となるのでは。
内容的には、自律的な個人に期待せずに、環境工学的にシステムを構築する(つまり動物化した人間でも知らず知らず社会は動いていく)というこのところの東さんの議論に対して、大塚さんが、権力者ではない個別分野の専門家によるシステムとはいえ、やはり人の意志が介入するのではないか、システムは常に暴走するのではないかとツッコむところ。さすが大塚さん、いいところを見ています。東さんの議論は人工的な構築物を自然なものと感じる大多数の動物化した人々は放っとけってことですから、このあたりは、東さんの弱いところかもしれません。
もちろん反対に、個人の自覚と公共性の確立を目指す大塚さんに対して、東さんはその手の論議の失敗の歴史と近代的国家への逆行の危険、消えたはずの「人間」の復活を指摘しています。大塚さんの基本はみんな大人になれよってことですから、ややもすれば説教臭くなってしまうところがあるようです。
ともあれ、モダン知識人・大塚さんとポストモダン知識人・東さん。ふたりの今後の活躍に期待します。
二人の差異は?
「一部の人」には言わずと知れた大塚英志と東浩紀の対談集。
内容は、おたくの消費文化から社会設計まで。
二人のことを知らない人がきくと、「なんじゃそれ」と思うかもしれない。
しかし、二人のことを知ってる人にとって、本書の主眼は、
「大塚英志がひたすら同じところに違和感を示し続けているだけの内容」
であると思う。
(なので、二人の差異をまじめ(暇まじめ?)に考えたい人向けに星五つとする。
ただし、そんな人マイナーなので一つ減点。)
本書の対談は基本的に、大塚英志が質問し、東浩紀が応答する、
というスタンスをとっている。東浩紀はほとんど一貫してロジカルに
大塚英志に答えるが、彼はどうしても納得しない。
「あとがき」にあるように、彼は東に過剰に苛立っているようにみえる。
二人の議論が擦れ違う最大の理由はたぶん、大塚が、
彼自身の考える「公共性」なるものをうまく言葉にしておらず、
東がそれを把握できないせいじゃないかと思う。
たぶん、大塚英志が欲しがっている「公共性」は、
潜在的なものでも(虚構ですら)いいから、
「想像可能かつ全域的な」郵便のネットワークなのだろう。
他者に語りかけることは、「手紙」を送ることだが、
大塚にとっては特に、「存在するネットワークの整備を願う手紙」を
送ることにあたるだろう。
もし人々が、公共性を信じていれば、郵便網は整備されていって、
もしかしたら、それは理想的な状態に近づいていくかもしれないのである。
だが東にとって、手紙は「誤配」されるものである。
ネットワークは整備されるかもしれないし、されないかもしれない。
あるいは、理想とは違うネットワークが整備されるかもしれない。
結局のところ、大塚英志は東浩紀よりも、ことばと人を信じている。
その信念が、東浩紀への苛立ちの原因となっているのだろう……
……と思っていたら、
東浩紀がニコニコにあがってる動画で、文芸誌の閉塞性に苛立ち、「文学的想像力の全体性を回復したい」とマジでいっているのを見た。その苛立ちは、大塚の東に対するそれと同種のものなんじゃないだろうか。想像力の全体性は、全域的な郵便のネットワークと同値であると思う。なぜなら結局のところ、文学的想像力も、手紙の交通の産物なのだから。
ただし東は、「文学的想像力の全体性」の社会的意味に言及していないのだけれど……
議論がほぼ平行線
議論はほぼ平行線のままで、あまり広がりが見られません。
これは対談の意味があるのか?と疑問を持つような本です。
彼らの考え方の違いや、こだわるニュアンスの違いに興味のある方ならば面白いのかも知れません。
なんて言うか狭いオタクという世界というか、完全に自分たちの世界の話で完結しています。
二人の本質が出ている本
東浩紀と大塚英志個人に特に関心がある人以外は読む必要が無いかもしれません。
東浩紀は昔から一貫して言い続けてきたことをここでも延々繰り返しているに過ぎず、そしてそれに対して大塚英志はひたすら同じところに違和感を示し続けているだけの内容だからです。
彼らの考えを知るにはもっと良い本が他にあるでしょう。
ただし、東浩紀御本人が仰る通り「二人の本質が出ている本」ではあるかもしれない。
論理の部分では明らかに東浩紀の方がイニシアチブを握っていた印象を受けますが、全編読みきったときには何か東浩紀に対する大塚英志の苛立ちも理解できるような気がする。
そして、東浩紀と言えばいつも「それこそが希望だ」とか「だって、それしかない」が決まり文句で、私個人としては敢えてそう言い切ってしまう東浩紀にヒロイズムさえ感じてしまうのですが、この本を読んで実は彼自身がそう言い続けることに少し疲れていて、更に秋葉原通り魔事件はそんな彼にとっては追い討ちだったのではないかと想像します。
それでも東浩紀を突き動かすものは果たして希望か、絶望か。大塚英志が最後まで譲らなかったのは、単純に理解や認識の限界と言い切っていいのか。
どうでもいいと言えばどうでもいい。しかし、これは論理というよりはそういうことを考える本だと思う。
でなければ二人の喧嘩をただ楽しむ本か。それだけでもとりあえず十分読み応えはある。
